【リトアニア・ヴィリニュス】ヴィリニュスの歴史を振り返る 

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みなさん、こんにちは。今回はリトアニアの首都、ヴィリニュスの歴史を紹介します。本当はもっと早く書くべきでしたが、8月の講演のために控えてきました。それでは見ていきましょう。

① そもそも、ヴィリニュスはリトアニア人オンリーの街か? 

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ヴィリニュスは言わずと知れたリトアニアの首都。リトアニアが誇るリトアニア大公国の都でもありました。しかし、ヴィリニュスが常にリトアニア人多数の街であったか、と言われると、それは正しくありません。

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まずは教科書にも登場する中世に存在した強国、リトアニア大公国を確認しておきましょう。リトアニア大公国はリトアニア、今のベラルーシ、リトアニアにまたがる広大な領土を持つ国でした。確かに、リトアニア大公国の支配民族はリトアニア人、被支配民族はスラブ民族でしたが、数で勝るスラブ民族の文化がリトアニア大公国を席巻することに。実際、リトアニア大公国の文章は「官房スラブ語」で書かれました。

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その後、リトアニア大公国のヨガイラがポーランド女王ヤドヴィガと結婚。リトアニアとポーランドの同君連合が成立しました。1410年「グルンヴァルトの戦い」でドイツ騎士団を、1514年に「オルシャの戦い」でモスクワ軍を撃破しました。

ポーランド クラクフ

ポーランド クラクフ

1569年、リトアニアとポーランドは「ルブリン合同」により「対等合併」しました。しかし「対等合併」といっても、リトアニアは少数派。次第にリトアニアは数で勝るポーランドに政治的にも、文化的にも飲み込まれることになります。

シナゴーグ

シナゴーグ

ところで、この時期にヴィリニュスに押し寄せてきた民族がいます。そう、ユダヤ人です。当時、ユダヤ人は西欧でいじめ抜かれたいたので、東方に避難してきました。ヴィリニュスにシナゴーグが建設されたのは16世紀後半のこと。18世紀にはヴィリニュスの人口の10%がユダヤ人でした。

② ヴィリニュスはロシア領に 

ロシア正教会

ロシア正教会

さて、18世紀になるとポーランドは大国の餌食になります。ポーランドは「シュラフタ」という貴族民主制を敷くのですが、これがあまりに不効率だったのです。結局、ポーランドはフランスのような中央集権国家にはなりませんでした。ポーランドはロシア、プロシア、ハプスブルクに分割されるわけですが、ヴィリニュスはロシア帝国領に組み込まれました。

しかし、リトアニアを支配したのはポーランド人(ポーランド化したリトアニア人貴族も含む)でした。もちろん、支配民族にはロシア人もいましたが。しかし、だんだんとロシア化が進められ、リトアニアは風前の灯火になったわけです。

③ 独立はしたが、ヴィリニュスはポーランドのまま 

カウナスにある旧大統領官邸

カウナスにある旧大統領官邸

時代は20世紀に入るわけですが、ここで1910年のヴィリニュスの人口比率を確認しておきましょう。ヴィリニュス住民の約54%がポーランド人、約42%はユダヤ人でした。ほとんどのリトアニア人は農村に追いやられていたのです。

それでも、ヴィリニュスでは一部のリトアニア人がリトアニア人のアイデンティティーに目覚め、民族運動に傾倒する人も出てきました。当時、ポーランド人とリトアニア人の区別は「リトアニア語を話すか、話さないか」だけでした。

一方、ヴィリニュスはベラルーシ人の民族運動の拠点でもありました。今はベラルーシの首都はミンスクですが、19世紀~20世紀初頭のベラルーシの民族主義運動はミンスクよりもヴィリニュスのほうが盛んだったのです。

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1918年、ロシア帝国の混乱に乗じてリトアニアは独立宣言。しかし、1920年「ソ連・ポーランド戦争」のドサクサにまぎれて、ポーランドはヴィリニュスを占領します。ヴィリニュスは1939年まで再びポーランドの一地方都市になったのです。

④ ソ連時代を経て独立 

ヴィリニュスが戻ったときのレリーフ

ヴィリニュスが戻ったときのレリーフ

1939年「独ソ不可侵条約」の秘密協定(一部修正あり)により、ソ連はリトアニアに侵攻しました。この際、スターリンはリトアニアにあるプレゼントを渡したのです。そう、ヴィリニュスです。ヴィリニュスはリトアニア・ソビエト社会主義共和国の首都になりました。こうして、念願のヴィリニュスがリトアニアに返ってきたわけですが、リトアニア人の内心は複雑だったようです。「自力で取り返すべきだった…」博物館で見たフレーズが印象に残りました。

その後、ナチス・ドイツが侵攻し、多くのユダヤ人が殺されました。また、様々な経緯からポーランド人も追われることになったのです。戦後、ヴィリニュスではリトアニア人の比率が高まりました。1970年にはリトアニア人比率約43%まで増えたのです。

ところで、ヴィリニュスにはリーガやタリンとは異なり、あまりロシア人は流入しませんでした。これは当時のリトアニア・ソビエト社会主義共和国の第一書記のロシア人流入抑制政策の効果だと言われています。

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1991年にリトアニアはソ連から独立しました。しかし、ヴィリニュスに住む人々がみなハッピーだったかと言われると、そうでもありませんでした。ジャーナリスト、アン・アンプルバウムはヴィリニュスに住んでいた当時のポーランド人の声を拾っています。

「だれがヴィルノ(ポーランド語読み)を建てた! 誰が教会を建てた! 誰が道を敷いた! 偉大なヴィルノの市民は誰だ!… ポーランド人だ! リトアニア人ではない、ポーランド人だ」

そして、彼女の本ではヴィリニュスに住んでいるポーランド人はポーランド人ではない、と主張するリトアニア人の教授も登場します。いずれにせよ、ヴィリニュスはハッピー神話ではなく、少なからずリトアニア人とポーランド人の間に緊張関係が存在していたことがわかります。


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