11月にクロアチアのドゥブロヴニクを訪れたわけですが、ドゥブロヴニクと切っても切れない関係にある国がセルビアです。今回は、私の旅行体験を踏まえつつ、ドゥブロヴニクから見たクロアチアとセルビアの関係を考えていきます。
①語り継がれるユーゴ紛争の記憶
今でこそドゥブロヴニクは世界遺産に登録された美しい町ですが、今から25年前の1991年、ユーゴ紛争に巻き込まれました。
1991年10月1日、セルビアとモンテネグロで構成されたユーゴ軍は一斉にドゥブロヴニクを攻撃。多くの建物が破壊され、尊い人命が失われました。
そして、1991年10月1日から約7ヶ月間、ドゥブロヴニク市民はインフラが寸断された中で生き抜いたのです。その後、クロアチア人の粘りもありユーゴ軍は撤退しました。
しかし、多くの建物は破壊され、一時期「危機遺産リスト」にも登録されました。それでも市民はめげずに、美しいドゥブロヴニクの姿を取り戻したのです。
今でもユーゴ軍による攻撃はドゥブロヴニク市民の心に残っています。こちらが「セルビア」と言うと、ドゥブロヴニクの人は必ずと言っていいほど、この攻撃を話します。
1991年以降に生まれた人も含めて、です。こうやって、ユーゴ紛争の記憶は語り継がれていくのだなあ、と思いました。
②今はもう習わないキリール文字
クロアチア語とセルビア語はよく似ていますが、決定的な違いはクロアチア語はラテン文字を使うのに対し、セルビアはキリール文字を使います。
現在、20代のクロアチア人にセルビア語を見せても、読むことができません。なぜなら、学校でキリール文字を学ばないからです。それに対し、旧ユーゴ時代に教育を受けたクロアチア人はスラスラとセルビア語が読めます。
旧ユーゴ時代はクロアチア人であっても、キリール文字が読めるようにトレーニングされたからです。年配の方は「ユーゴスラビアだったから」と笑いながら答えてくれました。隣国の文化を知る上でも、キリール文字の教育を復活させればいいのに、と思うのは私だけでしょうか。
③少しずつだがセルビア人が戻っている
旧ユーゴ時代は多くのセルビア人がドゥブロヴニクでのひと時を楽しみました。しかし、紛争後、全くセルビア人はドゥブロヴニクを訪れようとはしなかったのです。
ホステルのオーナーに聞くと、若年層を中心に少しずつ、セルビア人がドゥブロヴニクに戻っている、とのこと。
少しずつですが、セルビア人観光客が回復しているようです。現に、オンシーズンにはベオグラードからドゥブロヴニク行きの直行便があるぐらいですから。まずは、観光でクロアチアとセルビアとの関係がよくなれば、と思う今日この頃です。