2020年7月10日、旧チェコスロバキアの指導者、ミロシュ・ヤケシュチェコスロバキア共産党書記長が亡くなりました。97歳でした。報道によると死因は「不明」とのことですが、おそらく新型コロナウイルスではないでしょう。当記事では簡単にヤケシュの過去を振り返ります。
① ハベル氏の対極に位置づけられるヤケシュ
Milouš Jakeš, photo: che, Wikimedia CC BY-SA 2.5
ヤケシュは1987年にチェコスロバキア共産党書記長に就任し、1989年のビロード革命で辞任するまでチェコスロバキアのトップにいました。
一般的にヤケシュ氏は「保守派」とみなされ、共産党政権を倒したハベルの対極に位置づけられる人物です。実際、1968年「プラハの春」以降の「正常化時代」では改革派の粛清に積極的にかかわりました。
ビロード革命後、1990年代と2019年に「プラハの春」でのソビエト連邦との反逆行為を疑われ、警察の取り調べを受けました。今でも多くの人々にとってヤケシュは「悪者」扱いなのでしょう。
②なぜ1987年に書記長に就任できたのか
さて共産趣味者ならびに東欧現代史をやっている人間だと、ヤケシュに対して疑問を思い浮かべるはずです。なぜソ連の書記長が改革派のゴルバチョフなのに、1987年に書記長に就任できたかということです。
ホーネッカーやチャウシェスクなど、とかく保守派の政治を嫌ったゴルバチョフ。その気になれば、保守派であるヤケシュの就任を妨害することもできたはずです。
7月15日付の「ラジオプラハ・インターナショナル」の記事によると、1950年代にヤケシュとゴルバチョフはモスクワで会っていたのです。当時、ヤケシュはモスクワ留学中でした。記事によるとこの「出会い」が1987年の書記長就任の助けになったとされています。
信じがたい理由かもしれませんが、政治の世界では個人的な理由でトップになることは珍しくないので、さもありなんという感じですね。
③市民デモに対してヤケシュはどのように対応したか
ビロード革命につながる市民デモに対してヤケシュはどのように思っていたのでしょうか。同記事によると彼はこのように語っていたようです。
“ビロード革命は秘密警察と民警と結託した一部の主要党員によるクーデターだと思っていた。警察に対しては絶対に市民を攻撃してはならないと命じた。なぜなら彼らは共産党とナチスを同一視するだろうと思ったからだ。”
今から考えると、時代流れを読み間違えた感がありますね。ヤケシュは書記長退任後も「忠実な」共産主義者でした。5月1日のメーデーにも参加したようです。
過去のいきさつはどうであれ、一共産趣味者としてご冥福をお祈りいたします。