みなさん、こんにちは。今回はクロアチアにあるヤセノヴァツ強制収容所を紹介します。おそらく「ヤセノヴァツ」という単語を初めて聞いた方が多いでしょう。しかし、ヤセノヴァツ強制収容所はユーゴスラビアの歴史はもちろん、ユーゴ紛争にも関係する施設です。それでは見ていきましょう。
ヤセノヴァツ強制収容所ができた時代背景
![左ヒトラー、右パヴェリッチ](https://tabiprogress.click/wp-content/uploads/2017/10/Adolf_Hitler_meets_Ante_Pavelić.1941-e1507631014732.jpg)
左ヒトラー、右パヴェリッチ
まずはヤセノヴァツ強制収容所ができた時代背景を整理しましょう。ヤセノヴァツ強制収容所は1941年に建てられました。場所はボスニア・ヘルツェゴビナの国境に近い、クロアチア領ヤセノヴァツです。
ヤセノヴァツ強制収容所をつくったのはアンテ・パヴェリッチ率いる「クロアチア独立国」でした。当時、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナはナチスドイツと協力関係にあったクロアチア独立国が統治していました。
クロアチア独立国をコントロールしていたのがクロアチア版ナチスのウスタシャです。ウスタシャはセルビア人やユダヤ人を大量に虐殺しました。
ウスタシャに対抗したのが2つの組織、チェトニクとパルチザンです。チェトニクはセルビア人の過激派集団、クロアチア人やボスニア人をローカルレベルで虐殺しました。
パルチザンは民族差別をせず、共産主義に基づいた団体でした。パルチザンのリーダーはチトー。ウスタシャ、チェトニク、パルチザンの三つ巴の戦いの結果、パルチザンが勝利したのです。
ヤセノヴァツ強制収容所の実態
![ヤセノヴァツ強制収容所跡に立つ博物館](https://tabiprogress.click/wp-content/uploads/2017/10/315863_269883539699842_2017424757_n-e1507631113376.jpg)
ヤセノヴァツ強制収容所跡に立つ博物館
ヤセノヴァツ強制収容所は5つの収容所から成り立っていましたが、最も有名なのが「レンガ工場」と言われた第三収容所です。第三収容所で行われたのは文字通りの「強制労働」。
ウスタシャによって逮捕されたセルビア人やユダヤ人がレンガ工場やチェーン工場で働かされ、時にはとんでもない重労働も。もちろん、十分な食事は与えられませんでした。
このような環境でしたので、強制収容所に入れられた人々は亡くなっていきました。ヤセノヴァツ強制収容所でも囚人の選別が行われ、働けないものは即、殺されたのです。一方、アウシュビッツ強制収容所にあったガス室はなかった模様です。
死者数をめぐる争い
![ヤセノヴァツの博物館では、死者数約80,000人としていた。](https://tabiprogress.click/wp-content/uploads/2017/10/307349_269883463033183_1657169439_n-e1507631220826.jpg)
ヤセノヴァツの博物館では、死者数約80,000人としていた。
それではヤセノヴァツ強制収容所では、どれだけの人々が亡くなったのでしょうか。セルビアの民族主義者によると、100万人が亡くなったとされています。
一方、旧ユーゴから独立したクロアチア共和国は約2,800人と主張。セルビア人、クロアチア人の間ではヤセノヴァツ強制収容所での死者数をめぐって対立が激化しました。
一方、アメリカにあるホロコースト博物館では、ヤセノヴァツ強制収容所の死者数を77,000人~99,000人としています。いずれにせよ、今でも正確な死者数はわかっていません。