クロアチア・ヤセノヴァツ強制収容所について(2)

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みなさん、こんにちは。2018年に入り、このTabi-PROGも今年で4年目に突入するわけです。1年で終わるかと思っていましたが、4年目に突入できるとは・・・。ひとえに読者のおかげだと思います。

さて、今回は晴れやかな新年に全く相応しくない話題、ヤセノヴァツ強制収容所の続き話をします。前回はヤセノヴァツ強制収容所の実態を紹介しました。今回はヤセノヴァツ強制収容所にモニュメントが建設された1966年までを追ってみましょう。

「ない」ことにされたヤセノヴァツ強制収容所 

チトー元帥

チトー元帥

ヤセノヴァツ強制収容所は残虐な行為をした証拠を消し去るために、ウスタシャ(クロアチア独立国を運営していた政治団体)によって破壊されました。破壊されたときは、すでにクロアチア独立国の敗北は決定的になっていたのです。

ご存知のとおり、戦後、チトーは「ユーゴスラビア連邦人民共和国」を建国。社会主義イデオロギーに基づく国家運営を行いました。

チトーは政治面だけでなく文化面でも社会主義イデオロギー・「友愛と団結」を広めようとしました。その際、邪魔になったのがヤセノヴァツ強制収容所です。もし、ヤセノヴァツ強制収容所が話題になれば、民族間の対立が再燃しかねません。

そこで、チトー政権はヤセノヴァツ強制収容所を「無視」。モニュメントも立てず、無関心を装いました。ところで、チトー政権はユーゴスラビアにおける第二次世界大戦の死者数を水増ししています。

一般的に「水増し」の理由は第二次世界大戦の「悲惨さ」を強調することで、社会主義政権への正当性を増すため、と言われています。

SUBNOR(人民戦争開放軍事団体)が立ち上がった 

このような「無視」政策に「それはないだろう」と言った団体がありました。それが「SUBNOR」、「人民戦争開放軍事団体」です。

このグループは主にセルビア人によって構成された退役軍人によるグループ。もちろん、「退役軍人」とは第二次世界大戦で活躍したパルチザン部隊です。

日本ではピンと来ないかもしれませんが、ユーゴスラビアでは退役軍人グループにはそれなりの政治的発言力がありました。1952年、SUBNORはヤセノヴァツ強制収容所の保存を目指す委員会を立ち上げました。

この委員会立ち上げの背景には「社会主義ユーゴスラビアに反対する者がヤセノヴァツ強制収容所を利用するのでは・・・」そのような恐れがあったと言われています。当初、政府はこの動きを無視しましたが、1960年代に入ると大きく物事が動きます。

そして、政府はもちろん、宗教関係者(セルビア正教、カトリック)もヤセノヴァツ強制収容所にモニュメントを建設することで合意しました。

なぜ、1960年代に入って、ヤセノヴァツ強制収容所にモニュメントを建設する話が進んだのか。残念ながら、建設へと至るプロセスを仔細に追うことはできませんでした。

筆者が想像するに、1960年代はユーゴスラビアで分権化が進んだ時代。以前と比べて、様々な意見が言いやすくなった時代でもありました。

その中で、公的史観(政府の歴史観)に真っ向から対決する意見が表面化したのもこの時代です。そのような「異論」に対抗するために、モニュメント建設を考えたのではないか・・・。これは、あくまでも私の一考察です。

民族色をなくしたモニュメント、ボグダン・ボグダノビッチの作品 

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このような紆余曲折を経て、1966年にヤセノヴァツ強制収容所跡地にモニュメントが建設されました。このモニュメントを建てたのがセルビア人のボグダン・ボグダノヴィチです。

ヤセノヴァツ強制収容所のモニュメントは「石の花」というタイトルが付けられており、コンクリート製の4つの花びらが天に向かって広がっています。

私も実際に遠目から「石の花」を見ましたが、戦争のモニュメントとは思えません。実は「戦争を想起させない」ことがこのモニュメントに隠されたレトリックなのです。

ボグダン・ボグダノヴィチは「石の花」に関して、このようなメッセージを残しています。

 

“ヤセノヴァツの花において、私は生命を表現した。確かにヤセノヴァツで犯された罪は悲惨なものだった。しかし、重要なことはその後にくる未来のことだ。”

 

この未来志向の姿勢は当時の社会主義、「友愛と団結」の理念に合致していたと考えていいでしょう。未来志向、社会主義、「友愛と団結」この考えに支えられてたのが「石の花」です。

なお、チトーはヤセノヴァツ強制収容所には公式訪問していません。なぜ、チトーが参加していなかったのか。私が知る限り、チトーが来なかった理由は明らかにされていません。

強制収容所を訪れると、ついつい戦争時に起きた悲惨な出来事に注目しがちです。しかし、視線を少し変えて、保存の経緯、モニュメントが建てられた理由を丁寧に追っていくと、意外な事実、考えが見えてくるものです。私が大学院で学んだひとつです。

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