スターリン死去後の混乱「ラトビアの雪解け」について 

ペルシュ
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みなさん、こんにちは。今回は「ラトビアの雪解け」についてお話します。「ラトビアの雪解け」をいくらグーグル先生に聞いても答えてくれないと思います。

なぜなら、「ラトビアの雪解け」は私が開発した専門用語だからです。スターリン死去後のラトビアにおける権力闘争はソビエト連邦内の共和国―連邦の力関係を固定化する出来事でした。この記事では限られた資料のなかで解説します。

① スターリンからフルシチョフへ 

ニキータ・フルシチョフ

ニキータ・フルシチョフ

いつも私は口酸っぱく言っていますが、ソビエト連邦は15のソビエト共和国が集まった集合体です。つまり、それぞれの共和国が主権の一部を連邦に移譲した、といえます。現に東京大学の和田春樹先生はソビエト連邦を「ソビエト連合」と表すことを提唱しています。

さて、歴史のほうを簡単に振り返っていきましょう。ラトビアがソビエト連邦に加盟(併合)したのは1940年のことでした。そのときのソビエト連邦の指導者はスターリンです。

スターリンはグルジア人でしたが、力によるロシア化によって民族問題を解決しようとしたのです。言い換えるなら「ロシア至上主義」です。そのため、各ソビエト共和国の民族自治は無視されるばかりか、徹底的に弾圧されました。

1953年、スターリンが死去。ソビエト連邦は大きな転換点を迎えました。ここで台頭したのが当時、第1副首相、内相であったベリヤ・ラヴレンチーです。

ベリヤは従来のソビエト連邦を大改革することを提案しました。端的に書くと、各共和国に大幅に権限を移譲し、民族運動を許容することを目指したのです。

しかし、ベリヤの考えはフルシチョフらの反対にあい、潰されてしまいました。フルシチョフから見ると、ベリヤの考えはソ連を壊しかねない危険な思想だったのです。

改革派と保守派の対立が鮮明になったラトビア 

ペルシュ

ペルシュ

スターリンの死去はバルト3国、とりわけラトビアの大きな影響を与えました。ラトビアでは広範な自治を求める改革派と従来どおりロシアとの絆を大切にする保守派で対立に発展。

改革派の代表はラトビア・ソビエト社会主義共和国閣僚会議副議長のベルクラーヴス、保守派の代表はラトビア共産党中央委員会のメンバーであったペルシュでした。ちなみに、ペルシュはモスクワ生まれのラトビア人です。

改革派は主に経済の専門家グループ、都会で支持を広めようとしました。また、彼らは政治面だけでなく、ラトビア語の権限拡大も要求しました。そして、改革派の注目すべき主張はロシア人をはじめとするスラブ民族流入の抑制を目指すこと。

スターリン期、多くのラトビア人がシベリアに追放され、そのかわりに大量のスラブ民族が流入してきたのです。勘の良い方ならお分かりでしょうが、改革派の主張は先ほど紹介したベリヤの考え方に似ていました。

保守派はラトビア人とロシア人の絆を強調し、改革派の唱えるプランにごとごとく反対。改革派と保守派の対立は抜き差しならぬ状況になったのです。

フルシチョフによるリーガ訪問で解決? 

しかし、ラトビアでの改革派と保守派の対立はあっという間に片がつきました。先ほど解説したとおり、クレムリンではフルシチョフがベリヤに勝利。

ベリヤは銃殺刑に処せられました。フルシチョフ指導部は改革派のベルクラーヴスに書簡を送っています。それによりますと。。。

「ベリヤは(君たちと)似た考えを持っていたので処刑した。あなたは私たちにどうしてほしいのか」

1959年、フルシチョフがリーガを訪問。フルシチョフは保守派を支持し、改革派は敗北しました。保守派のベルシュはラトビア共産党第一書記に昇格。

一方、ベルクラーヴスはロシアに逃れたそうです(逃れたと書いてありますが、事実上の軟禁状態でしょう)。もちろん、多くの改革派が粛清されました。こうして、ラトビアはソビエト連邦の共和国のなかでも、最もクレムリンに忠実な存在になったのです。

 1956年のラトビアでの出来事における歴史的意義は? 

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ここでは、一連のラトビアでの歴史的意義を考えたいと思います。これ以降、ペレストロイカまで共和国から連邦に対する大きなアクションはありませんでした。

つまり、ラトビアの出来事をもって、共和国と連邦との関係が固定化されたといえるでしょう。固定化された関係とは連邦による「主従関係」です。共和国には自立的に自分の国を運営する力はありませんでした。

しかし、クレムリンがいくら言っても、連邦内の民族問題は解決しなかったのです。フルシチョフは「解決」と思ったかもしれません。しかし、それは単なる問題の先送りにすぎませんでした。

 

参考文献

志摩園子著『物語 バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』中公新書、2004年

和田春樹著『スターリン批判 1953年~56年』作品社、2016年

Aldis Purs, “BALTIC FACADES―ESTONIA, LATVIA, LITHUANIA SINCE 1945―”, REAKTION BOOKS LTD, 2012. 

 

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