モルドバの首都キシナウはロシアとのつながりを感じる街

中央市場
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旧ソ連加盟国だったモルドバ共和国の首都キシナウに着きました。旅行ブログを読んでいると、「キシナウには何もない、見所がなかった」という記述がよく見られます。

こういう記述を見る度にファイトが沸いてきます。ベオグラード級、それよりもカオスな街、キシナウを見ていきましょう。

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筆者撮影

キシナウの目玉、凱旋門の前に無数のテント

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まずは、キシナウで必ずと言っていいほど皆さんが訪れる凱旋門から。この凱旋門は1841年に建てられ、巨大なモルドバの国旗がかかっていました。

個人的に旗に紋章のある国旗が好きなので、旗の中に紋章が書かれているモルドバの国旗は私の中ではポイントが高いです。

もちろんフランスの凱旋門と比較すると、とても小さくかわいそうになってきます。そのような凱旋門の前には無数のテントとモルドバの国旗がありました。

筆者撮影

筆者撮影

今年、建国以来、最大級の政治スキャンダルがモルドバで発生したのです。実はモルドバの銀行にあった計10億ユーロが姿を消してしまったのです。一体お金はどこに行ったのでしょうか? 

誰も分かりません。周辺を見渡すと政府高官の顔写真がズラッと並んでいるポスターを見つけました。そこにいた方は「この人たちは本当に悪い奴らだ」と静かに言いました。まだ、真相が分かっていないため、国民の怒りは収まっていないようです。

キシナウにある歴史博物館、ロシアに対する感情は複雑

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お昼を食べ、歴史博物館に行きました。世界史を習った方ですと「モルドバ」というより「ベッサラビア」と言う方が通りがいいかもしれませんね。

1812年、露土戦争の結果、現在のモルドバがロシア領になりました。「ベッサラビア」とはロシア側が名付けた地名です。それ以降、この地はロシアと切っても切れない関係になったのです。

19世紀の歴史を紹介する展示室では、ロシアとの関係を肯定的に解説していました。様々な社会改革によって近代化が進められたことが分かります。少なくともロシアのテコ入れによって、この地が発展したのは事実だと思われます。

しかし、スターリン時代の展示ではガラリと変わって、多くのモルドバ人がグラーグ(強制労働キャンプ)へ追放されたことを紹介していました。

この時代のソ連は他国に恨まれることばかりやっていたのだなあ、と思ってしまいます。この「事実」が現在にも尾を引いているような気がします。ロシアに対するモルドバ人の複雑な感情が読み取れた時間でした。

キシナウとプーシキンとの関係は?

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ロシアの有名な詩人、プーシキンは1820年~1823年まで流刑生活をキシナウで過ごしました。有名な話として、プーシキンはキシナウを「ソドム」と呼び、かなり否定的に表現しています。

実際のところはどうなのでしょうか。プーシキンが実際に住んでいた家に行きました。解説を読むと、プーシキンはモルドバの文化人との交流を楽しみ、一緒にベッサラビア旅行もしていたとのこと。

案外、プーシキンはロシアと違った文化を楽しみながら、のんびりと暮らしていたのではないでしょうか。何よりの証拠に超有名な「エヴゲニーオネーギン」はここキシナウで書き始めたわけですから。
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博物館のスタッフが丁寧にロシア語で解説してくれたおかげで、プーシキンの違った一面を知ることができました。また、ルーマニアとは異なり、歴史博物館、プーシキンの家にも英語ガイドがあったのは本当に助かりました。

確かに、キシナウには博物館は多くありません。おそらく資金不足のせいでしょう。それを、お金のかからない方法で懸命に穴埋めしている姿勢に少し感動しました。

なんでも揃うキシナウ中央市場

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キシナウ・バスターミナルの近くに中央市場があります。ここでは食料品から機械まで、なんでも揃います。とても安いので足りないものがあれば中央市場で買いましょう。ただし、混沌とした雰囲気なのでスられないようにご注意ください。

(11月19日)

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