このようなタイトルを付けると、多くの方は「えっ」と思われるでしょう。しかし、これは事実です。ワルシャワ歴史地区は忠実には復原されていないのです。しかし、文化的価値はあります。今回はワルシャワ歴史地区にまつわる問題をサクッと見ていきましょう。
①第二次世界大戦のお話
ポーランドの首都はワルシャワです。ポーランドの首都がワルシャワになったのは16世紀のこと。ポーランド南部にあるクラクフから遷都しました。原因はヴァヴェル城の火災にありますが、統治していたリトアニアとの交通の便を考えて、ワルシャワ遷都が実行された、という説も有力です。
第一次世界大戦後、ポーランドは長年の眠りから覚めるように独立しました。もちろん、この時もポーランドの首都はワルシャワ。「このまま幸せな時間が過ぎていくか」と思われましたが、第二次世界大戦を迎え、再びポーランドは地獄を見るのです。
ポーランド人はナチス・ドイツから「最下層」に位置づけられました。要するに「奴隷」ですね。教育は最低限に抑えられ、ポーランド文化は根こそぎ破壊されたのです。そして、運命の1944年を迎えます。
1944年、ワルシャワ市民と国内軍(AK)が中心となり、ナチス・ドイツに蜂起しました。これが有名な「ワルシャワ蜂起」です。蜂起軍は勇敢に戦いました。しかし、ある大国の支援が得られなかった結果、悲劇的な結末に終わったのです。その大国とはソビエト連邦です。
ソビエト連邦は国内軍(AK)を敵視しており、自分たちが認めたポーランド部隊しか信用しませんでした。戦後、国内軍(AK)はソ連によって粛清されます。実権を握ったのは国民から全く支持は無くともソビエト連邦のお墨付きがある、共産党一派だったのです。
②戦後の復興
第二次世界大戦の結果、ワルシャワ市内の85%の建物が破壊されました。もちろん、旧市街や王宮も破壊されたのです。戦後、歴史地区として旧市街を復原させていくわけですが、同時に住宅環境の向上も急務でした。
歴史地区は今でこそ美しいですが、第二次世界大戦前は増築された部分もあり、問題点が多かったのです。そこで、歴史地区の復原の際には18世紀~19世紀をモデルに、それ以降の増築部分は削除。
窓のデザインや屋根の高さは景観を意識して、すべて綺麗に統一されたのです。建物内部は大幅にテコ入れされ、部屋が広くなりました。
このように、ワルシャワ歴史地区は四角四面に復原されたわけではなく、18世紀~19世紀を意識しながら、現代にも対応する形で復原されたのです。また、時代が建物ごとに完璧に揃っているかと、言われるとそうでもありません。
実際に、1960年代、ワルシャワ歴史地区はオリジナルに従っていない、という理由で文化財としての評価は低かったのです。しかし、1980年代に風向きが変わります。1980年代になると、復原、復興に対する国民の意思が高く評価されるようになったのです。
「モノ」ではなく「普遍的な価値や思想」に重きを置いた、と言っても過言ではないでしょう。そして、ワルシャワ歴史地区は世界文化遺産に登録されるのです。
③「現代を意識した伝統の継承」
ここからはあくまでも私見です。よくワルシャワ歴史地区のパンフレットを見ると 「壁のひび1本まで忠実に再現された」みたいなことが書かれています。
しかし、実際には四角四面に復原されたわけではない。部屋は現代に合わせて広くなっている。王宮広場の下には主要幹線のトンネルも通っています。しかし、着実に伝統は継承されています。
「現代を意識した伝統の継承」の方がワルシャワ歴史地区の実情にマッチしていますし、将来性を考えればこちらのフレーズの方が魅力的だと思います。いずれにせよ、過去、現在、未来の「線」という発想でワルシャワ歴史地区の復原に取り組んだ姿勢はすごいですね。
参考文献
鈴木亮平他 著『ワルシャワ歴史地区の復原とその継承に関する研究-文化財としての価値をめぐる戦後の議論に着目して-』
イェジ・ルコフスキ著『ケンブリッジ版世界各国史-ポーラドの歴史』