サラエボは「ヨーロッパ」と「アジア」が混在する街

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ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボにやって来ました。サラエボと言えば様々な出来事を思い出しますが、この街の最大の特長はイスラーム、カトリック、正教の文化が入り混じっていることです。

特にイスラーム文化が個人的にはとても新鮮でした。本当は多くのことを書きたいのですが、コンパクトに要点を絞って書きたいと思います。

サラエボで空気がガラッと変わる

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ボスニア・ヘルツェゴビナ東部のヴィシェグラードからバスに乗ること2時間30分、首都サラエボに着きました。サラエボでまず新鮮だったのが、ブルカを被る女性が急に増えることです。

そうです、サラエボには多くのボシュニャク人(イスラーム教徒)が住んでいます。イスラーム教徒が多いわけですから、モスクもたくさんあります。料理もトルコ風になります。

筆者撮影

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しかし、イスラーム文化だけではありません。サラエボの中心地にはモスクの他に、カトリックの教会と正教の教会があります。

カトリック教会と正教の教会の鐘が同時に鳴ったと思えば、今日はアザーン(イスラム教の礼拝の呼びかけ)が聞こえてきました。 個人的にこれほど楽しい街はありません。

サラエボの旧市街はトルコ風の建物が目立ちます。明らかにアジアの香りがしますが、少し歩くとヨーロッパの街並みが広がります。そうです、ここは「ヨーロッパ」と「アジア」が混在する街でもあります。

筆者撮影

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さらに第二次世界大戦前まではユダヤ人も多く住んでいました。シナゴーグも残っていますが、現在はユダヤ博物館になっています。4つの民族が平和に共存していた時代、どのような雰囲気だったのでしょうか。

スレブレニツァの虐殺で思うこと

筆者撮影

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ボスニア・ヘルツェゴビナで忘れてはならないことは、約20年前に起きたボスニア紛争です。

ボスニア紛争では、多くのボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が「民族浄化」の名の下に殺され、レイプされました。その中で一番規模が大きく有名なのがスレブレニツァで起きた虐殺です。

1995年7月に、スルプスカ共和国側がボシュニャク人を大量虐殺しました。死者数は最低でも8,000人。実際はこれよりも多くの方が亡くなったと言われています。

10代以上の男性が家族から引き離され無残な殺され方をしたわけです。 サラエボにはスレブレニツァの虐殺を紹介するための博物館があります。

ここで当時のビデオを見ました。もちろん、実際に殺されるシーンも映っています。個人的に何回か見たことのあるビデオでしたが、やはりショックが大きかったです。自然と涙が出ました。「なせ、こんなことが起こるのか」と。

セルビア側が落とした爆弾跡

セルビア側が落とした爆弾跡

紛争ではクロアチア人、\ボシュニャク人も規模は違えど同じような残虐行為を行いました。本当は3民族が話し合いながらボスニア紛争を総括する博物館を作ればいいのでしょうが、時間がかかると思います。

1984年のサラエボオリンピック

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「サラエボ」と言えば、1984年の冬のオリンピックが挙げられます。残念ながら、日本チームはこのオリンピックでは芳しい結果が残せませんでした。

さて、街の中心地から歩くこと20分、オリンピックに使われたスタジアムに着きました。「ここには、オリンピックを記念したものが展示されており」と書きたいのですが、ここはボスニア紛争で亡くなった方の集団墓地になっています。

スナイパー、セルビア軍に狙われにくい場所だったので、ここに埋葬されたそうです。埋葬は命懸けだったことは書くまでもありません。オリンピックの意義、平和の意義を改めて考えさせられました。

福島の人々の苦しみを無視する形で行われる東京オリンピック。果たして本当にオリンピックの精神にふさわしいのでしょうか。サラエボオリンピックの跡地を歩きながらふと考えました。

(10月28日)

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サラエボの位置

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