サラエボ2日目は、サラエボ包囲の跡地、痕跡をめぐるツアーに参加しました。サラエボは1992年から1995年にかけて、ユーゴ連邦軍、セルビア軍に包囲されました。
その結果、サラエボだけで約1万人の死者を出し、多くのけが人が発生。女性や子供も容赦なしに殺されました。たった20年前の出来事です。
建物、家が狙い撃ちされる恐怖
11時に第一次世界大戦のきっかけとなったラテン橋近くにあるインフォメーションセンターからスタートです。まずは車でサラエボが一望できる丘に行きました。
当時、丘には多くのセルビア人軍が集結し、上から建物や家を狙い撃ちしたのです。水源もセルビア軍が掌握したので、水を確保するだけでも大変だったそうです。
丘からサラエボを見るとサラエボが盆地だということがわかります。つまり、それだけ包囲されやすい都市なのです。
丘の近くに住んでいた住民は殺害、もしくは移住を余儀なくされました。3年半も敵軍に囲まれていつ死ぬか分からない恐怖。実際に体験した人でないと分からないでしょう。
生命線だったトンネル
完全に包囲されたサラエボ。それでも、食料や必要な物資を手に入れないと餓死してしまいます。住民はどのような対策を練ったのでしょうか。一つ目の手段がトンネルです。
ボスニアの人々は国連の管理下にあった空港から市内に一番近いボスニア軍の解放地まで、急ごしらえのトンネルを作りました。
トンネル内は完全に腰を曲げないと通れないくらい、小さなトンネルです。使用されていた時は雨や地下水の影響で道は水浸しの状態でした。
通行証を持って重い必要物資のかばんを担いで死に物狂いでトンネルを通ったわけです。
さらに、トンネルの出口からスナイパーに撃たれないように、慎重に迅速に安全地帯まで走らなければなりません。サラエボにいる限りどこにいても安心できる場所はありませんでした。
デイトン合意から将来へ
1995年、アメリカのデイトンでボスニアのイゼトベゴビッチ大統領、クロアチアのトゥジマン大統領、セルビアのミロシェビッチ大統領と仲介役のアメリカによる話し合いが行われました。
そして、ボスニア・ヘルツェゴビナに2つの自治組織(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、スルプスカ共和国)を作ることで合意。ボスニア紛争は終結しました。
しかし、ボシュニャク人ガイドのデイトン合意に対する感情は複雑なものでした。紛争が終結したことは評価できるが、ボスニア人に対する「民族浄化」が行われた地域の多くがスルプスカ共和国に属し、国土が二分された、と言いました。
また、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗、国歌はEUなどによる強い圧力で決められたものであり、自分達には決定権は全くなかった、と。
ユーゴ紛争を大学で見つめて来た立場から考えると、デイトン合意の内容、その後のプロセスは致し方ないと思います。
ただ、今の状態を固定化するのではなく、ゆっくりと3民族の和解プロセスを進めるべきだと思います。それには若い世代、教育が大切になるのでしょう。ボスニア・ヘルツェゴビナに来て、個人的に「何か」が変わったような気がします。
(10月29日)
←前の記事 次の記事→