みなさん、こんにちは。早いもので、2017年に入りました。今年もよろしくお願いします。さて、2017年の最初は特集を組みたいと思います。
ソビエト連邦はウクライナやラトビアなどの連邦共和国をどのように統治していたのでしょうか。各共和国にはどれくらい権限が与えられていたのでしょうか。様々な二次資料を用いながら、知られざる連邦構成共和国の実態に迫ってみたいと思います。
①そもそも、ソビエト連邦構成共和国とは?
「ソ連=ロシア」と思われている方も多いのではないでしょうか? それは全く異なります。ソビエト連邦の正式名は「ソビエト社会主義共和国連邦」といい、15の共和国が集まった一つの連邦体です。
それぞれの共和国には主権がありましたが、主権の一部を「自発的」に差し出して連合政府を作りました。もちろん、共和国は存続した上でソビエト連邦が成立したのです。この仕組みを作ったのはソビエト連邦の創始者、レーニンです。
レーニンは各共和国がいつでも自発的にソビエト連邦から離れられる「離脱権」を制定。この点をやたらと強く主張しました。ところで、ソビエト連邦に参加した15の共和国は分かりますか? 地域別に書き出してみましょう。なお、15共和国になったのは1956年のことです。
東ヨーロッパ:ロシア、白ロシア(ベラルーシ)、ウクライナ、モルダビア(モルドバ)
バルト:エストニア、ラトビア、リトアニア
コーカサス:グルジア(ジョージア)、アルメニア、アゼルバイジャン
中央アジア:カザフ(カザフスタン)、キルギスタン(キルギス)、タジク(タジキスタン)、トルクメン(トルクメニスタン)、ウズベク(ウズベキスタン)
ソビエト連邦の領土は最末期のロシア帝国の領土とだいたい一致します。ロシア帝国から独立し、そのままソ連に加わらなかったフィンランドは例外ですね。
②ソビエト連邦にはロシア共産党がない?
それぞれの共和国には共産党が置かれました。例えば、ウクライナですとウクライナ共産党が置かれ、ウクライナを統治していました。
しかし、ロシア共産党はありませんでした。その代わり、ソ連全国土に指令を出す中央党、ソ連共産党がモスクワに置かれたのです。
つまり、各共和国の共産党はソ連共産党の支部に過ぎなかったのです。後で詳しく解説しますが、ソ連共産党で決められたことは、そのまま受け入れるしかなかったのです。
ソ連共産党の党員の多くはロシア人でした。ロシア人が優位に立ち各国を事実上、コントロールしていたのです。
③ソビエト連邦ではソビエト連邦最高会議が1番
ロシア人メインの中央(連邦)と各共和国が従属関係にあったことを示すひとつの証拠が最高会議が行われる時期にあります。ソビエト連邦の最高国家機関はソビエト連邦最高会議でした。そこでは、連邦全体の立法権と行政権(一部)も有していました。
モスクワで開かれるソビエト連邦最高会議には各共和国の議員も参加できましたが、議席の多数を占めていたのはロシア人でした。そのため、基本的にロシア人の絶対的優位は揺るがなかったのです。
ソビエト連邦最高会議の後に、共和国の最高会議が行われました。共和国の最高会議にも立法権はありましたが、ほとんどソビエト連邦最高会議で決められた物事を追認、確認することに終始したのです。
マスコミの扱いもソビエト連邦最高会議と比べると小さな扱いでした。仮に中央が共和国の意見をもっと取り入れたいと思ったら、共和国の最高会議を先に行って、そこで出された議論をモスクワで討議すればいいのです。しかし、そうはしなかったのです。
ところで、「時期は関係なく、各共和国だけでも議会で自発的に立法権や行政権を行使すればいいじゃないか」と思われる方もいるでしょう。
しかし、各共和国は自発的な動きはできなかったのです。それは各共和国と連邦側の各省の振り分け、各共和国のリーダーに秘密があります。
今回の解説だけでも、ソビエト連邦では共和国が主役ではなく、あくまでもモスクワが中心であることがわかるでしょう。
ソビエト連邦はモスクワ中心の官僚国家だったことがわかります。次回はもう少しソビエト連邦の実態を解説します。
参考文献
エレーヌ・カレール・ダンコース著 『崩壊した帝国―ソ連における諸民族の反乱―』 1981年、新評論。
和田春樹著 『スターリン批判1953年~56年』 2016年、作品社。