Eišiškės: Provided by Wikipedia
改めて旅行後に考えてみました。なぜ中欧・東欧にこだわるのかを。そこには、きちんとした(?)理由があるのです。
① 単なる個人的な性格
何だかんだ言ってもこれは大きいでしょう。そうです、単なる個人的な性格です。私は昔から「こだわり」が強いのです。本当に好きなものは長続きしてこだわる方です。古くは幼稚園時代に、落ち葉を右から左へ移す遊びにはまって、これを休みなく2時間。幼稚園の時も、一切絵本は読まず、ひたすら鉄道の本ばかり。少し親が心配したほどでした。
大学、大学院では、ほぼ毎日、ロシア・中東欧に関する本を読んでいたような気がします。ただ、言語は苦手で、今でもロシア語の勉強を続けていますが、上達はスロースピードです。
② 日本が直面するであろう問題を体験した中欧・東欧
日曜日の午前中、何気なくテレビを見ていると、日本のとある公党の党首がこのように言いました。「私は社員、労働者が会社を経営するような社会を作りたいのです」と。一見、新鮮味がありどこの国も試していないような気がします。
しかし、とある国で数十年前に実践し大失敗に終わっているのです。その国とは、旧ユーゴスラヴィア。強烈なリーダーシップを持つチトーが推し進めた「自主管理制度」がそれに当たります。ここでは詳細は書きませんが、完全な失敗に終わり紛争に突入していくことになります。
自主管理制度の例は少し極端ですが、日本では考えられない問題を体験したのが中欧・東欧なのです。古くは独裁、報道規制、秘密警察、民主化、民族問題。直近ですと難民問題が思いつきます。
どうですか、もしかすると、これから日本が直面しそうな問題のオンパレードではありませんか。私たちは中欧・東欧を学ぶことで「何か」を得るはずです。
③ 中欧・東欧には壮大なドラマがある
リトアニアとベラルーシの国境近く、リトアニア側にEišiškėsという小さな町があります。そして、Eišiškėsからベラルーシ領に入るとRadunというこれまた小さな町があります。今ではリトアニアとベラルーシは別々の主権国家ですので、町の行き来にはパスポートが必要です。
しかし1939年までは共にポーランド領に属していました。もちろん、両方の町では交流が盛んでポーランド人とユダヤ人が多く暮らしていたのです。農民はスラブ語とバルト語の方言を話していました。おそらく両方とも話せるか、もしくはちゃんぽん状態だったのでしょう。両方ともユダヤ文化が有名でシナゴーグがあちこちにあったそうです。
ところが、第二次世界大戦でソ連とドイツが侵攻。ユダヤ人とポーランドの富農層はほとんど消滅(ちなみに、Radunに住んでいたユダヤ人の若者の多くが有名な杉原千畝さんのおかげで亡命できました)。ソ連併合後はEišiškėsがリトアニア・ソビエト社会主義共和国に、Radunが白ロシア(ベラルーシ)・ソビエト社会主義共和国に編入されたのです。
当初は大きな変化はなかったのですが、少しずつ変化が生じる結果に。Eišiškėsではリトアニア語が主流になりベラルーシ語は話されなくなりました。一方、Radunではベラルーシ語が主流になり、リトアニア語は話されなくなったのです。ソ連時代、リトアニアの方が道路事情が良かったのでEišiškėsの方はより広い地域と交流ができるようになりました。
一方、白ロシアの方は交通事情が悪かったのでRadunでは過疎が進みました。
このように、中欧・東欧では頻繁に国境線が変わるので町が様変わりするのです。これも中欧・東欧の興味深いところではないでしょうか。様々な文化が行き交い、時には栄え、時には悲劇が起こる。日本では味わえないダイナミックなドラマが展開されているのです。
ちなみに、先ほどのEišiškėsとRadunのお話は中東欧研究家のアン・アンプルバームの旅行記を下敷きに説明しました。一つ一つの町や地域の歴史を紐解きながら中東欧の町を歩くと、思わぬ感動や考えさせられることがたくさん出てきます。
そのような体験をもっと自分自身でも味わいたいし、多くの日本人にも体験して欲しいのです。